小学生が、校庭のサッカーをしていて校庭からボールが飛び出して、そのサッカーボールが原因で転倒した後に死亡した男性の遺族が、ボールを蹴った小学生のの両親に損害賠償を求めた裁判で、昨日(2015/04/09)最高裁は、裁判官全員一致の意見として「子供の行為が及ぼした被害に対する予見可能性の有無で、親らが監督義務を尽くしたかどうかを線引きできる」とする判断を示しました。
これまで、
子どもの責任は親の責任として
裁判でもほぼ無条件に親に賠償責任があると判断されていましたことが、もっと個別具体的な状況をも判断しなければいけないとされたことは良い判断だと思います。
ただ、この判断によって「実際に被害を被った人への救済」がおろそかになるようなことがあっては駄目だと思います。
つまり・・
この裁判の事例では、そもそも子どもがサッカーをして遊んでも、そのボールが校庭からでないようにする責任が学校であり、市町村でありにあったのでは亡いだろうかと思慮するところ、第一審や第2審で、被害者側(原告側)はそれらの責任を追及したのだろうか?
これまでの傾向から親の責任が認められるからと、そこいらをすっ飛ばしていたとするなら、そもそもそれは原告側代理人の失策だろう(すみませんが、この部分は勝手な妄想です・・事実と違う場合はごめんなさい)。
ということは・・・
今後子どものしたことで何らかの損害を被った場合には、たんに親に責任があると主張するだけではなく、もっと丁寧に様々なことを考慮しつつ、責任の所在を考えて、何らかの過失があると考えられる相手にもその責任を追及していく必要があるということですね。
まぁ、この最高裁の判断で大切なことは、
子どもの責任は親の責任だ
という二者択一で考えるべきではなく、事案によっては「親の責任が軽減されるのだ」という場合も考えられることだろう。
ところで・・・
世の中に完全無欠の人間などいないはずだ(>_<)
人間だれしもが成功することもあれば失敗することもありますし、時には過ちを犯してしまうことだってあると思慮するところ・・
ある意味、
それは大人だろうが子どもだろうが、人間の性として仕方の無いことだとも思うわけです・・・。
人間は、
誰しもが表と裏とを合わせもっていますが、その表と裏というのも白と黒とにはっきりと区別できるような代物では無く・・
同じ事柄でも、
場合によって、また、人によっては黒にも見えるし、白にも見える相対的なものです。
同時に、
最も人間的に合う合わないということもあることは認めざるを得ないところでもあり、それも人間関係をより複雑にしておる要因のひとつです。
ある側面だけをみて
「あいつは・・・」
と批判することは簡単ですが、逆に相手の良いところを探す努力も必要だよね。
まぁ、
まずは人様のことをどうのこうのと言う前に、自分自身が過ちと正しいこととを通算してみたときに、少なくとも正しいことが多かったと言えるような生活であり、仕事であり、生き方を送ることが大切なことなんじゃなかろうか?
そしてその評価が、自分自身の評価としては勿論のこと、他人からみても総体的な評価として「あいつは正しく生きていたね」と思われるように努力をしていきたいと考える今日この頃です。
まぁ・・と言う訳で・・
私のあんな事やこんな失敗はできれば水に流してほしいぞ・・m(_ _)m
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今日の一曲
アラジン – 完全無欠のロックンローラー
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