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高峰司法書士事務所

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現在の場所:ホーム / 2014 / アーカイブ 8月 2014

アーカイブ 8月 2014

裁判なんてやめときなはれ

2014年8月19日 By 高峰博文

裁判なんぞやめときなはれ
いきなりですが、裁判なんてやらなくてもすむのならやるもんじゃありません。

こんなことを書くと、弁護士さんやその他の法曹と呼ばれる方々から怒られそうですが・・・

これまで司法書士として、裁判事務に関わって個人的に感じたことを正直に話してみたいと思います。


あくまでも個人の感想です・・・気にしないでください・・・


裁判は

全ての裁判がそうである!!

とは言いませんが、

往々にして裁判は、ある意味で・・・

やる前から結果が決まっているのではないか?

と考えられないこともない。

とはいえ、

裁判の結果はやってみないとわからない

とも言えます。

ん・・・どう書けばよいのでしょうか・・

説明できるかわかりませんが説明してみます。


裁判の行方は風まかせか?

誤解を恐れずに書きますと、全く同じ問題を A 裁判所で戦った場合と、 B 裁判所で戦った場合とで、その結果が全く同じになるかどうかはやってみないとわかりません。

もっと言いますと、同じ A 裁判所でも、担当する裁判官によっては、同じ案件でも結果が変わることがあります。

これは、裁判官が公正で中立な立場で裁判を行うために、良心に従い独立してその職権を行うこととされているからで、言い換えると、裁判官によって判断基準が違うということです。

勿論、どの裁判官が判断をしても同じ結果になる裁判もあるはずですが、世の中の争いってそんな単純なものばかりではありませんし・・

司法書士である私が言うと元も子もないのですが、往々にして

弁護士や司法書士が絡んでくると、単純な話が複雑化してしまう

こともあるようで・・・(^^;)


裁判官は中立か?

これも怒られそうですが、本音を言うと、「全然中立じゃない」と感じることが多々あります。

具体的に言うと、

訴状を一読した段階で・・・いや・・・もしかすると、こういう案件は、この結果にする・・と、最初からすでに裁判官は決めているんじゃ無いのか?

と感じることがあり、この部分が冒頭の

「裁判は裁判をやる前から既に結果が決まっている」

ということです。

ただ、担当する裁判官の腹のうちが、どちらに傾いているのかはわからないので、

「やってみないとわからない」

ということになります。

で・・何が言いたいのか?・・ということですが・・



言い方悪いですが、

裁判は平等じゃ無い

と思います。

裁判を起こしても、起こされても、その事件を担当する裁判官によっては、勝つはずの裁判が負けることもありますし、逆に負け筋の裁判でも勝つことがあります。

結局、裁判は「個々の裁判官という個人の判断基準によって結果が変わる」ということです。

しかし、実際に裁判業務に携わっていると、割と多くの依頼者は、かっての私がそうであったように「裁判は平等だ」・・つまり、どこの裁判所で争っても、「勝つものは勝つ」し、「負けるものは負ける」と考えて裁判を依頼してきます。

勿論、裁判を依頼された私たちは、裁判で負けないように考えながら進めるのですが、裁判の新参者の司法書士としては、この裁判官の判断基準を無視することができません。

えっ??

「裁判官の価値基準さえも覆すような仕事をしろ」

ですか??

いや・・勿論・・その努力はしますが、絶対に自分の価値観を曲げない人もいるように、裁判官といっても千差万別、色々な方がいらっしゃいますので、どうしょうも無い方もいらっしゃるのが現実のようで・・・


じゃ・・どうするの?

結局、裁判なんてものをする以前に、裁判をしないですむようにするべきです。

この意味は、

「そもそも争いごとに発展しないようにしておくべきだ」

と言う意味はもちろん・・

「仮に争いになったとしても、裁判の前に、和解できる方策を探す方が賢明な判断」

だと言う意味です。

私が言うのも何ですが・・・

「何が何でも、損得勘定を抜きにしてでも裁判をしたい」

というのでなければ、裁判をすることはお薦めしません。

もちろん、それでもあなたが裁判を希望するのであれば、持てうる限りの力を尽くして、あなたの味方になります。

ただ、争いを予防するために、弁護士や司法書士をご利用頂く方が精神衛生上も経済的にもメリットが大きいのではないでしょうか?

まぁ、とは言うものの・・・

裁判をするより他の選択肢が無い場合には裁判を行う意味もありますし、訴えられた場合は否応なく裁判に巻き込まれますが・・・

あなたのお困りごとはなんでしょうか?

裁判のことなら、弁護士か司法書士までご相談ください。


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Filed Under: 司法書士業務 関連タグ:裁判

裁判をする前に

2014年8月18日 By 高峰博文

裁判・・その前に・・

何を馬鹿なことを

ちょっと裁判のことを知っている人からはそんな言葉が聞こえてきこえてきそうですが・・・

司法書士になろうと思い、法律の勉強をする以前は、裁判は公平で正しい者の味方だ・・つまり、正義が勝つものと思っていました。

しかし

裁判の真実

司法書士の勉強の途中から、「ん???」と感じるようになりました。

そして、実際に司法書士になり、裁判事務に携わるようになると、正義が勝つわけじゃ無いことを実体験として知りました。

裁判で正義が勝つのか?

大昔、裁判のことをよく知らなかった時代の裁判のイメージは、

例えば、「AさんがBさんに100万円を貸したけれど、返してもらえない事実があった場合」

Aさんが、Bさんを相手に「100万円を返せ」という裁判をすれば、裁判所はAさんの言い分を認めて、Bさんから100万円を回収してくれるような感じだと思っていました。

まぁ、Bさんも100万円を借りたこと返していないことを認めれば、たしかにAさんの言い分は認められますが・・・

Bさんが、「俺は100万円など借りていない」と言うとどうなるのでしょうか?

Aさんは「Bさんに100万円貸した」ことを、裁判所に証明しなければなりません。

たとえ、本当にAさんがBさんに100万円を貸していたとしても、この「100万円貸した」ということを裁判所に証明できなければ、Aさんの言い分は認められなくなります。

少し考えると、裁判官は全知全能の神ではないのだから、当事者双方の言い分が食い違っている場合、どちらの言い分が正しいのかは、提出された証拠によって判断をするより他ないということは、まぁ、あたり前っちゃ当たり前ですが・・・。

Aさんが、Bさんに100万円を貸したのが事実でも、何の証拠もなければ、Bさんに「そんなん借りてない」と言われてしまえば、裁判でAさんが、Bさんに100万円貸したことを立証しない限り、Aさんの言い分は認められなくなります。

よくある相談

「知人に金を貸したけど返してくれない」

「契約書は作っていない」

「領収書ももらっていない」

「お金を返してくれないから裁判してくれ」

と言う相談がたまにあります。

この場合、カッカして直ぐに裁判をするのは得策ではありません。

証拠を残しておこう(証拠を作ろう)

たいていの場合は、相談にみえられるまでに、さんざん返済の猶予をされている場合も多いのですが・・・

それでも、このような場合には裁判をする前に、

再度の返済の猶予を与える(分割払いも考慮)代わりに、「金を貸し渡した事実」と、ついでに「返済を受けていない事実」を書面への署名押印をもとめる

ことをお薦めします。

実際に裁判をするのは、その後(返済の猶予を与えたのに、それが守られなかったとき)にするのが得策です。

また、争いごとが金銭の回収に関することならば、可能ならその書面を執行認諾文付きの公正証書で作成しておけば、裁判の手間が省けますので、一石二鳥です。

債権の回収

ちなにも、裁判で勝っても、自動的に裁判所がお金を回収してくれることはありません。

お金を回収する為には、強制執行をする必要があるかもしれませんが、まぁ、何をしても金の無い人からは回収できません・・・(^^;)

だから、本当に裁判をする意味があるのかの判断も重要です。

親しき仲にも礼儀あり

たとえそれが、親友であろうとも、お金の貸し借りは書面に残しておきましょう。

「俺が信用できないのか?」

そんなことを言う人は信用できません(爆)


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Filed Under: 司法書士業務 関連タグ:裁判

終戦記念日と殺人

2014年8月15日 By 高峰博文

どうして人が人を殺しちゃいけないの?

今日の朝方に見た夢・・・

朝っぱらからこんな夢を見ました。

あなたは、素朴な子どもの疑問に、答えることができるだろうか?

まぁ、この質問の答えは「一つしかない」ということは無いと思いますが、私なりの答えを綴ってみました。


    子どもが母親に、
    「人はどうして人を殺してはいけないの?」
    と尋ねている・・

    「それは・・人を殺すことは悪い事だからよ」
    と母は答えた。

    そうすると子どもから
    「なぜ人を殺すことが悪い事なの?」
    という質問が返ってくる・・・

    「それじゃ、貴方が殺されることは良いことなの?」

    と答えた母に対して、子どもが

    「私は殺されたく無いわよ・・でも、お母さんずるい・・・私が聞いているのは私が殺されることが良いことなのか悪いことなのかを聞いているのでは無く、どうして人が人を殺すことが悪いことなのか?・・を聞いているのよ」

    と答えた・・・・。

何て小憎たらしいませガキだ・・などと思いながらも、

なぜ人が人を殺すことが悪いことなのだろうか・・

ということを考えている夢だ

疑問

勿論、

人が人を殺すことは悪いことだ!

おそらく、これを読んでくれている あなた もそう考えているだろう?

問題は何故そういうふうに考えるのか・・という疑問です。

法律で決められているからだろうか?

そうだとすると、
法律で殺人が認められていれば、殺人も悪い事ではない
のだろうか?

違うな・・・

そんなことで殺人が悪い事じゃ無いと思えるほど軽いことじゃないな・・

じゃ・・

殺人が許されるとしたら、何時自分自身が殺されるかがわからないから、自分が殺されないためには、殺人はしてはいけない

と考えているのだろうか?

そうだとすると、

それの真逆の状態・・・

つまり・・相手を殺さないと、何時自分が殺されるかわからない、また殺人自体が罪に問われないのが

戦争

ということか・・・

んんん・・・法律で禁止しているからという理由だけよりも説得力はあるようだが、それでも何か足りない・・というかおかしいと思う・・・

詭弁の正義

思うに・・・

誰かを殺すということは、その人を殺すということに留まらず、その人の周りにいる人も傷つけることにならないか・・

そうだとすると、そういう負の連鎖に想いがいたらない・・・

つまり・・・

想像力の欠如も人が人を殺す要因の一つ

だろうか・・・

そうか!

もしかすると・・そういう外的な要因で「殺人」を行わないのではなく、

実は内的な要因

なのではないだろうか?

つまり、

現実にほとんどの人が「人を殺す」ことをしないのは、

誰かを殺すこととで究極的には自分自身の心が傷つく

からじゃないだろうか?

しかし、こう考えると・・・・・

自分の事が大切と考えない人間は、誰かを殺すことのハードルも低くなる

ということになるか?

ん~・・・・

人はどうして人を殺してはいけないの?

それでも、この質問に対する答えとしては

「誰かを殺すことは、自分自身を殺すこと・・つまり自分自身(の心)を傷つける行為に他ならない・・だから誰かを殺すようなことはしてはいけない」

と考えるのが今のところ一番納得できるような気がする。

この「他人を殺すことによって自分の心が傷つく」という事は、きっと「戦争」というある種の異常な極限状態であっても何ら変わるところはないと思う。

たとえ戦争であっても、人を殺すことで、いかに人を傷つけることになるのかを考えると、つくづく戦争なんぞするもんじゃ無いと考えます。

ありがたいことに、生まれてこのかた戦争とは無縁の生活を送らせてもらっている。

だから、想像でしかないけれど・・・

もしも「戦争」で否応なく殺し合いをしなければならないとするならば、少なくとも自分自身にとっての、
「正義」(他人を殺すことを正当化して、自分自身が人を殺したという行為を正当化するための正義という意味)が必要になってくるのではないだろうか?

もっともこの「正義」というもの、
絶対的な正義などではなく
双方にとってそれぞれが信じる異なる正義であることは言うまでもありませんが・・

しかし、どんなお題目をつけた正義であっても、それはかりそめの正義でしかないハズであり、このかりそめの正義・・つまりは

詭弁の正義・・

でしかないはずだ。

たとえ、それが戦争という非日常的な状況で行ったことであっても「人を殺した」という行為が、その人の心を傷つけないはずはないと思いますが・・・

次第に、母親が考えているのか?・・・夢を見ている自分自身が考えているのか?・・・よくわからない状態のときに、誰かの声が聞こえた。

「その答えは人が・・」

・・・もう少しで答えが聞ける・・・というところで、場面が変わって・・目が覚めちゃった。

託された者として

今日は、大東亜戦争の終戦記念日です。

戦後69年が経過した今を生きる私たちは、かの大戦で、祖国の為に戦った名もなき人々と、命をなくされた戦没者が、夢にみた未来を作れているのでしょうか?

そして、戦争をしない為に、今なすべきとこととは・・できることとは何でしょうか?

もしも、
「誰かを殺すことは、自分自身を殺すこと・・つまり自分自身(の心)を傷つける行為に他ならない・・だから誰かを殺すようなことはしてはいけない」
ということが、人が人を殺してはいけない理由の一つになるとしたなら、これから育つ子どもたちが「自分を大切にできる」そして「他人を大切にできる」ような教育なり、社会環境の整備が必要なのではないだろうか?

今日の日本と家族の平和に感謝します。

Filed Under: よもやま話

死後の世界

2014年8月14日 By 高峰博文

成仏できない今日は8月14日・・お盆の真っ最中ということで、

もしも自分が死んでしまったら?

について考えてみました。

えっ?
縁起でもない??

でもまぁ・・何時か必ずその日はくるのだから、自分のいなくなった後の世界について考えておくことは、未来を考えることだと思います。



まぁ、今日は法律とかの難しい話ではなく(いつものことか(^^;))、もっと現実的な問題の話です。

自分で蒔いた種は自分で刈り取れ

同じような意味で、
皆さまが、よくご存じな諺の「立つ鳥後を濁さず」というものがあります。

その意味は、読んでそのまま

「立ち去るものは、きちんと後始末をしておけ」

ということなのですが・・・・。

 最近では、仕事に私生活に無くてはならないコンピューター何ですが、その昔は、できあがった物を買うよりも、部品を買ってきて自分で組み立てる方が安かったので、昔から、何台も何台も作ってはバラし、バラしては、組み立てる・・・という事を繰り返していました。

 その結果として、事務所や家には、今では使わなくなった規格の部品がゴロゴロと転がっています。

 まぁ、それは良いんですが・・

問題は、ハードディスクなどのいわゆる記憶装置と呼ばれる部品についてです。

特にハードディスクは値段も安くなったこともあり、いちいちデーターを削除することも無く、どんどんデーターを集積しています。

このハードディスクが、事務所や家にゴロゴロとあっちやこっちに転がっています。

困ったことに、それら転がっているハードディスクの中に何が記憶されているのかは、コンピュータに繋いで見てみないとわからない状態となっています。

 中には物理的に壊れており、動かないものもあるのですが、大抵のものは繋げば、動くようです。

 で・・・もしも、この状態のまま・・私が突然死んでしまったら・・残されたハードディスク達はどうなってしまうのでしょうか??

 いえいえ・・勿論、物理的なハードディスクを心配しているのでは無く、その中に記録されているデーターのお話です。

 中には、人様にお見せすることができないようなものを、無きにしもあらず・・・

 また、仕事で使っていたデーターなどは、正に個人情報の塊です。

 これが自分の死後に外部に流失するような事態となったら・・・冷静に考えると、これはちょっと恐ろしい事態になることに気が付きました。

 まぁ・・死んだ後だし・・どうでも良いと言えば、どうでも良いのですが、やはり紳士たるもの、死んだ後に「げ~~~~っ」と思われるのも・・・ちょっと悲しい・・・

 「立つ鳥後を濁さず」の諺にならい、少しずつでも整理してみたいと思います。

 懸命なる皆さまにおかれましても、同様に、自分亡き後のコンピューターのデーターにつき、今から何らかの手を打っておくべきかもしれません。

ところで・・・

電脳世界を彷徨うデーター

ここまでのお話は、言ってしまうといわゆるローカルの問題なのです。

ここから先は、ローカルよりも厄介な、オープンの問題を書いてみます。

最近はやりのクラウドサービス・・利用していますか??

「クラウド」=「インターネット」上で、行われる色々なネットワークサービスの事です。

 この中でも利用することが多いのが、「エバーノート」や「ドロップボックス」・「シュガーシンク」などの、オンラインストレージ(インターネット上にある、記憶スペース)でしょうか?

 このオンラインストレージ・・大変便利で、データのバックアップなどに大活躍しているのですが、これも自分が生きていれば良いのですが、急に死んじゃった場合・・どうなるのか???

 まぁ、第三者が勝手に自分のオンラインストレージのIDとパスで、アクセスして勝手にデーターをどうこうするということは考えずらいのですが、少なくとも有料オンラインストレージの場合は期限がくればデーターが削除されるかもしれません。

 無料のオンラインストレージならば、おそらくそのオンラインストレージ運営会社が、倒産でもしない限りは、逆にず~っとそこにデーターが存在することになります。

 つまり・・例えば、オンラインストレージに家族の写真を保管している場合に、勝手にその写真データーが消えると困っちゃいますよね。

 また別の問題では、そのオンラインストレージに家族の写真があることを自分以外の誰も知らない場合には、結局、そのデーターは無いのと同じことじゃないのか??

とも言えるし・・・

そのデーターが誰も管理していない状態で、消えないまま、ネット上にあるというのも・・・何やら気持ち悪く、成仏できなくなりそうだ・・

 そして、もう一つ・・いわゆるソーシャルネットワーキングサービスやブログなどをしている場合に、そのSNSを退会したり、ブログを削除したりしないまま、死んでしまうと、それが存在する限り、何時までも自分の書き込んだ事が残ってしまうということになります・・・

 それを何とも思わないのであれば・・いいのでしょうが・・個人的には・・あまり望ましいとも思えませんし・・・。

じゃ・・・どうするのか???

 遺言の一部に、オンラインストレージのIDとパスとかパスとかを入れておくわけにもいかず・・・でも何らかの形で・・後の処理が出来るようにはしておきたいと考えるのですが・・・何か良い方法はないものでしょうか?

新しい事業を思いついた

あぁ・・そうだ!!

いっそのこと、IDとパスの管理委託(信託でもええか?)を受けて、委託者が亡くなったら、預かったIDとパスとパスでクラウドのデーターを消しまくる・・っていう事業でも起こそうかしら?

ん・・・「生きている間に中身を見られると困る」・・ですか??

大丈夫ですよ。

司法書士には守秘義務がありますから、中身を見ても誰にも言いません(笑)

イヤイヤ・・中身は見ません・・確認するだけです(爆)

死後の世界

とは言っても・・

あの世という意味ではなく、自分がいなくなった後の現世という意味

ですが・・

自分の死後、パソコンなどもデーターから「え~っ・・こんな趣味だったのか?」と笑われないように、要らなくなったファイルや、他人に見せることが出来ないファイルは少しづつでも処分しておいたほうが良さそうです。

皆さまも、一度パソコンなどもデーターの大掃除をしませんか?

Filed Under: 相続 関連タグ:相続

ひぐらしの糞爺

2014年8月13日 By 高峰博文

sp

エージング

スピーカーには「エージング」という作業が、必要らしい

実際に音を出した時間が少ない新しいスピーカーは、スピーカーの稼働部分であるコーンとフレームとを繋げている「エッジ」部分・・サスペンション部分とも呼ばれますが、その部分が固いといわれています。

オーディオマニアの間では、それがスピーカーを使い込むことによって徐々に柔らかくなっていき、スピーカー本来の持つ性能が発揮できるようになると言われています。

「エージング」・・・まぁ、車でいうところの「慣らし運転」・・と考えて頂いても間違いではと思いますが・・・

このエージングによって改善されるのは、何も「エッジ」だけということでは無く、コーン部分も場合によっては、コイル部分でさえ材料によっては、経年変化しています。

一般的にエージングによって、音は枯れて柔らかくなっていき、角の取れたふくよかで表現力豊かな音に変化すると考えられていますが、もしかすると誤差の範囲内なのかもしれません・・・。

人によっては、そんなものは必要無いという人もいるし、たしかにそこに差があるとしても微々たるものかもしれませんが、この微々たる差が、実は大切なんじゃないでしょうか?

しかし

エージングによって本来のパフォーマンスが発揮できるようになったとしても、何時までもその状態が維持出来るわけではなく、山を登り切った後は、いつか山を降りなければならない(経年変化によって今度はパフォーマンスが落ちてくる)時期がやってきます。

スピーカーに限らず、人間だって時間をかけて使い込んでこそでる味があるはずですが、人もスピーカーも時間をかけて、愛情を注いでこそ、その真価を発揮することができるようになるのかもしれません。

共通する問題は、一番おいしい時間ってそれほど長くもないということでしょうか?

糞爺

今日からお盆休みのところが多いのか、街が静かです。

聞こえてくるのは、蜩(ひぐらし)の鳴く声と扇風機の風の音

お盆(のせい?)ということもあるのでしょうか?

仕事は開店休業中なので、幸い(?)色々な事を考える時間はたっっぷりとあります。

私も生まれて半世紀を過ぎ、人生のおいしい時間のピークを超えて、後は下っていくだけなのかもしれませんが、人の一生はスピーカーの一生ほど単純ではなく、人が登るべき山は「一つ」と言う訳でもないようです。

一つの山をくだりながら、次に登る山の頂きを目指します。

まぁ、目指すは

「かっこよくて、可愛い糞爺」

蜩のように残された人生を謳歌するために、

そして・・・その日暮らしに陥らないように・・

まだまだ、かっこ悪くあがきます。

Filed Under: よもやま話

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